2017年 06月 22日
広尾 友の会 |
前回少し書いたプロレスマスクのお話。
数年前、何十年ぶりにプロレス観戦し、その後、そうだったよな〜とか、あ〜だったよな〜とかひとりで思い出していました。
プロレスを見るようになったのは小学1年生ぐらいだったと思う。同年代がウルトラマン80を好きなように、俺はミルマスカラスにみせられてしまった。たぶん実家の喫茶店に集まる常連さんのせいだ。テレビでウルトラマンを見ていれば子どもの俺に「お前こんなのいないんだぜ〜」とか言われながら育ってしまったからだと思う。なのでウルトラマンより仮面ライダー。仮面ライダーよりスパイダーマン。スパイダーマンよりミルマスカラス。と言う感じで、よりリアルなモノが好きだった。なので実はキン肉マンを殆ど見た事がない。
そして環境。俺の周りには4〜5歳年上のいとこの兄ちゃんがいっぱいいた。俺がマスカラスを好きになった頃、既にマスカラスの人気は低迷していた。少し年上のいとこの兄ちゃん達がリアルタイムだった。なのでいとこの兄ちゃん達が小遣いで買ったマスカラスやメキシカンプロレス(ルチャリブレ)の専門誌を飽きたからと言って数冊くれた事がさらにマスクマンを好きになるきっかけだった。
あと我が久我山には老舗の自転車屋がある。その店の2代目がプロレスクレージーだった。時同じ頃、俺は自転車競技に夢中だった事もあり、毎日その自転車屋にいた事がプロレス好きになるきっかけだった。2代目の部屋に入ると何十年分の「ゴング」「プロレス」「ビックレスラー」いわゆるプロレス雑誌を図書館のように読む事が出来た。それに2代目はプロカメラマンを目指していた時期があった為、プロレス会場で撮影した選手の生写真が何千枚と見れた。当時の俺からすればH写真より興奮し、鼻血がたぶん出ていたと思う。2代目はひとまわり以上もちろん年上だったが弟のようにかわいがってくれた。うちの父は当時定休日がなかったので、年に1〜2回一緒にプロレスを観に行く事が唯一父を独占出来る時間だった。そんな定休日のない父の代わりにこの2代目がどの会場にも連れて行ってくれた。
さて話しを戻してプロレスマスクだが、まずは1982年1月8日の後楽園ホールでの事だ。爆発的大人気の初代タイガーマスクを父と観に行った時に運命の出会いがあった。隣の席に2人組の大学生がいた。その人達が紙袋をガサゴソとやっていた。そしてその紙袋から出て来たのは見た事もない本物のプロレスマスクだった!今でも覚えているがそれはエルカネックのマスクを数枚持って来ていたのだ。たぶんその日の俺は試合どころではなく、隣のマスクが気になり、おそらく目がハートみたいになっていたので、その隣のお兄さん達が紙の切れ端にマスクを売っている店の電話番号を書いてくれた。ただ当時メキシコ製のマスクは高くて全く買える金額ではなかった。この日会場で確か3千円で売っていた子供用のタイガーマスクのレプリカマスクが初めてのマスクとなった。すごく嬉しかった記憶。
時は流れ1983年夏。その夢の図書館、自転車屋2階にある2代目の部屋で俺は何時ものようにプロレス雑誌を読み漁っていた。するとデラックスプロレスと言う雑誌に「新OJISAN企画」プロレスマスクショップ「ジオン」と言う記事を目にする。日本でプロレスマスクを製作する第一人者とされている方が起こしたグループをプロレスファンは「OJISAN企画」や「OJISANグループ」と言う。もちろんあのタイガーマスクのマスクやタイツを製作していた工房だ。いろんな大人の事情でこのグループは直ぐ解散してしまったようだが、当時そんな大人の事情などは知りもせず、その店の住所が書いてある雑誌を2代目に借り、母にお願いして連れて行ってもらう事にした。
そのマスクショップは広尾にあった為、渋谷からバスに乗り日赤広尾病院で下車。すると母は「あんた生まれて直ぐにここに入院してたんだよ」と暑い夏の日、そんな話しをしながら広尾の商店街を246に向かって歩いた事は今も忘れない。
記憶では店先に子供服などが並び、店に入ると女性物のアクセサリーなどを扱う店だった。そのさらに奥に所狭しと覆面レスラーのポスターがびっしり貼られ、資料の雑誌、専門誌が並んでいた。ただマスクがびっしり並んでいると言う俺の妄想とは全く違い、マネキンに数枚のマスクがかぶせてあっただけだった。
話しを聞くと全てオーダーメイドの為、注文してから7〜10日で完成と説明された。その時、母はマスクを作る男性と奥様らしき人と楽しそうに話しをしていた。ガラに似合わず母は裁縫が得意だったので、マスク製作を見て楽しんでいた。あととにかく茶封筒(現金書留)がいっぱいあり、全国から注文の手紙なんですよと話してくれた。この時、赤と金のツートンカラーIIIマークのタイガーマスクとジャージ生地のマスカラスがあり、これは売り物と言われたがタイガーマスクは高額の為、5千8百円のマスカラスをお年玉で買った。しかもそこから千円おまけしてくれた。言うまでもないが、嬉しくて帰りのバスではマスクをずっとかぶっていたと思う。母は「あんたバカだね〜」と笑っていたような気がする。
この広尾のマスク屋さんには2年ぐらいひとりで通うようになっていた。そして子どもながら最後はせつない別れだった。ある時期から電話をしても繋がらないので訪ねてみる事にした。するとたまたま荷物を取りに来ていたあの奥様らしき方がバツの悪い顔で「来てくれたの?」と少し慌てた感じで言った。子どもながらただならぬ雰囲気を確りと感じた。今思えば夜逃げ的な店の畳み方だと思う。その時点で全国からどれだけオーダーを受けていたかは分からないが、そのまま音信不通となるところに間が良いのか?悪いのか?分からないが俺が行ってしまったのだ。その女性も本当に困り顔でどこかに電話をしていた。たぶんマスクを製作していた男性にだと思う。最終的に女性が「オーダーしていたマスクがまだ出来ていないからこの2枚の内1枚のマスクを預けておくから完成したら電話するね」と約束し俺は店を後にした。これが広尾のマスク屋に行った最後の日となる。もちろんマスクは完成する事なく連絡もなかった。
大人になりインターネットが普及された頃、なぜかプロレスマスクを検索していた。するとマスクファンサイトや掲示板には膨大なマスクの情報があった。俺は当時8〜10歳ぐらいだったので何も分からなかったが、当時高校生や大学生だった人の文章を読むと当時のマスク屋事情が手に取るように分かった。俺と母がマスク屋に行ったのが1983年の夏。1984年の1月には上記に書いた「OJISANグループ」は消滅していた事が分かった。いわゆる大人の事情でドロドロだったようだ。あと広尾のマスク屋はプロ仕様ではなく、あくまでもファンに提供するマスク屋だったようだ。
そして1985年頃にはプロ仕様の
マスクを扱う店と出会う事になる。
プロレスマスク新宿篇はまたいつか。
ごきげんよ、さようなら。
(※8歳の俺。ソンブレロが良いw)
数年前、何十年ぶりにプロレス観戦し、その後、そうだったよな〜とか、あ〜だったよな〜とかひとりで思い出していました。
プロレスを見るようになったのは小学1年生ぐらいだったと思う。同年代がウルトラマン80を好きなように、俺はミルマスカラスにみせられてしまった。たぶん実家の喫茶店に集まる常連さんのせいだ。テレビでウルトラマンを見ていれば子どもの俺に「お前こんなのいないんだぜ〜」とか言われながら育ってしまったからだと思う。なのでウルトラマンより仮面ライダー。仮面ライダーよりスパイダーマン。スパイダーマンよりミルマスカラス。と言う感じで、よりリアルなモノが好きだった。なので実はキン肉マンを殆ど見た事がない。
そして環境。俺の周りには4〜5歳年上のいとこの兄ちゃんがいっぱいいた。俺がマスカラスを好きになった頃、既にマスカラスの人気は低迷していた。少し年上のいとこの兄ちゃん達がリアルタイムだった。なのでいとこの兄ちゃん達が小遣いで買ったマスカラスやメキシカンプロレス(ルチャリブレ)の専門誌を飽きたからと言って数冊くれた事がさらにマスクマンを好きになるきっかけだった。
あと我が久我山には老舗の自転車屋がある。その店の2代目がプロレスクレージーだった。時同じ頃、俺は自転車競技に夢中だった事もあり、毎日その自転車屋にいた事がプロレス好きになるきっかけだった。2代目の部屋に入ると何十年分の「ゴング」「プロレス」「ビックレスラー」いわゆるプロレス雑誌を図書館のように読む事が出来た。それに2代目はプロカメラマンを目指していた時期があった為、プロレス会場で撮影した選手の生写真が何千枚と見れた。当時の俺からすればH写真より興奮し、鼻血がたぶん出ていたと思う。2代目はひとまわり以上もちろん年上だったが弟のようにかわいがってくれた。うちの父は当時定休日がなかったので、年に1〜2回一緒にプロレスを観に行く事が唯一父を独占出来る時間だった。そんな定休日のない父の代わりにこの2代目がどの会場にも連れて行ってくれた。
さて話しを戻してプロレスマスクだが、まずは1982年1月8日の後楽園ホールでの事だ。爆発的大人気の初代タイガーマスクを父と観に行った時に運命の出会いがあった。隣の席に2人組の大学生がいた。その人達が紙袋をガサゴソとやっていた。そしてその紙袋から出て来たのは見た事もない本物のプロレスマスクだった!今でも覚えているがそれはエルカネックのマスクを数枚持って来ていたのだ。たぶんその日の俺は試合どころではなく、隣のマスクが気になり、おそらく目がハートみたいになっていたので、その隣のお兄さん達が紙の切れ端にマスクを売っている店の電話番号を書いてくれた。ただ当時メキシコ製のマスクは高くて全く買える金額ではなかった。この日会場で確か3千円で売っていた子供用のタイガーマスクのレプリカマスクが初めてのマスクとなった。すごく嬉しかった記憶。
時は流れ1983年夏。その夢の図書館、自転車屋2階にある2代目の部屋で俺は何時ものようにプロレス雑誌を読み漁っていた。するとデラックスプロレスと言う雑誌に「新OJISAN企画」プロレスマスクショップ「ジオン」と言う記事を目にする。日本でプロレスマスクを製作する第一人者とされている方が起こしたグループをプロレスファンは「OJISAN企画」や「OJISANグループ」と言う。もちろんあのタイガーマスクのマスクやタイツを製作していた工房だ。いろんな大人の事情でこのグループは直ぐ解散してしまったようだが、当時そんな大人の事情などは知りもせず、その店の住所が書いてある雑誌を2代目に借り、母にお願いして連れて行ってもらう事にした。
そのマスクショップは広尾にあった為、渋谷からバスに乗り日赤広尾病院で下車。すると母は「あんた生まれて直ぐにここに入院してたんだよ」と暑い夏の日、そんな話しをしながら広尾の商店街を246に向かって歩いた事は今も忘れない。
記憶では店先に子供服などが並び、店に入ると女性物のアクセサリーなどを扱う店だった。そのさらに奥に所狭しと覆面レスラーのポスターがびっしり貼られ、資料の雑誌、専門誌が並んでいた。ただマスクがびっしり並んでいると言う俺の妄想とは全く違い、マネキンに数枚のマスクがかぶせてあっただけだった。
話しを聞くと全てオーダーメイドの為、注文してから7〜10日で完成と説明された。その時、母はマスクを作る男性と奥様らしき人と楽しそうに話しをしていた。ガラに似合わず母は裁縫が得意だったので、マスク製作を見て楽しんでいた。あととにかく茶封筒(現金書留)がいっぱいあり、全国から注文の手紙なんですよと話してくれた。この時、赤と金のツートンカラーIIIマークのタイガーマスクとジャージ生地のマスカラスがあり、これは売り物と言われたがタイガーマスクは高額の為、5千8百円のマスカラスをお年玉で買った。しかもそこから千円おまけしてくれた。言うまでもないが、嬉しくて帰りのバスではマスクをずっとかぶっていたと思う。母は「あんたバカだね〜」と笑っていたような気がする。
この広尾のマスク屋さんには2年ぐらいひとりで通うようになっていた。そして子どもながら最後はせつない別れだった。ある時期から電話をしても繋がらないので訪ねてみる事にした。するとたまたま荷物を取りに来ていたあの奥様らしき方がバツの悪い顔で「来てくれたの?」と少し慌てた感じで言った。子どもながらただならぬ雰囲気を確りと感じた。今思えば夜逃げ的な店の畳み方だと思う。その時点で全国からどれだけオーダーを受けていたかは分からないが、そのまま音信不通となるところに間が良いのか?悪いのか?分からないが俺が行ってしまったのだ。その女性も本当に困り顔でどこかに電話をしていた。たぶんマスクを製作していた男性にだと思う。最終的に女性が「オーダーしていたマスクがまだ出来ていないからこの2枚の内1枚のマスクを預けておくから完成したら電話するね」と約束し俺は店を後にした。これが広尾のマスク屋に行った最後の日となる。もちろんマスクは完成する事なく連絡もなかった。
大人になりインターネットが普及された頃、なぜかプロレスマスクを検索していた。するとマスクファンサイトや掲示板には膨大なマスクの情報があった。俺は当時8〜10歳ぐらいだったので何も分からなかったが、当時高校生や大学生だった人の文章を読むと当時のマスク屋事情が手に取るように分かった。俺と母がマスク屋に行ったのが1983年の夏。1984年の1月には上記に書いた「OJISANグループ」は消滅していた事が分かった。いわゆる大人の事情でドロドロだったようだ。あと広尾のマスク屋はプロ仕様ではなく、あくまでもファンに提供するマスク屋だったようだ。
そして1985年頃にはプロ仕様の
マスクを扱う店と出会う事になる。
プロレスマスク新宿篇はまたいつか。
ごきげんよ、さようなら。
(※8歳の俺。ソンブレロが良いw)
by steelfriend
| 2017-06-22 23:30
| ルチャリブレ
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